心理学のお勉強

人格心理学

自己と自我


自我 egoという言葉は精神分析の世界でよく用いられます。特に「心的装置論」の中で、周りの世界に受け入れられる行動を作り出し実行する、という機能として使われ、「私」の主体的な面を切り出した言葉です。

これに対して自己 self、という言葉は、「自己意識」や「自己概念」といった使い方がされる言葉で、「私」の意味や価値といった客体的な面を切り出しています。

といっても、実際の議論ではこの違いは考えられることなく使われることがほとんどですので、この場でもその違いを意識せずに使っていきましょう。

自分と他人を分ける最も基本的なものは「からだ」です。自分の体を持つなら自分、そうでなければ他人。非常に単純なことなんですが、これがないと、自分の顔を見ても自分であると認知できない、という事態になってしまいます。

この身体像は動物にも存在することが知られています。とはいえそれはチンパンジーやゴリラ、オランウータンというグレートエープスのみであり、同じチンパンジーでも、生後すぐに隔離し1匹で育てたものでは、この身体像の認知ができないことがわかっています。

これは自己認知の能力には系統的に、そして発達的に限界があることを示しています

では人間ではいつ頃になったらこの自己認知が可能になるのでしょうか。これについても実験によって確認がされており、人間は2歳を過ぎると鏡を使った身体像の認知ができるようになる、と考えられています。ということは、自己の認知は他者の認知よりも遅れて発達するわけで、人間にとっては他者を客観的に見るほうが、自分を客観的に見ることよりも簡単、ということがいえるでしょう。

この2歳頃というのは、自分の要求を自分の名前でできるようになる時期であり、そして、その欲求と社会の要求の間に対立があることも知り始める時期です。そこで自分の要求を押し通すか、社会の要求を受け入れるか、それを状況によって選ぶことをはじめます。

エリクソンがこの時期の発達課題を「自律性対恥、疑惑」としたのも、あるときには自己主張・自己実現ができ、あるときには自己を抑えることを獲得する、という意味でのことです。

この自律性には行動の面で「する」「しない」と、要求の面で「したい」「したくない」の2つの面があります。これをまぜこぜしたのが実際であり「したいことをする」「したくないことはしない」というものに加えて、「したいことでもしない」「したくないことでもする」というのがあることがわかるでしょう。

好きな友達を誘って遊ぶのは「したいことをする」わけで、これを自己主張・実現的自己コントロールといいます。「したくないことはしない」というのもこちらに入ります。

これに対して、ブランコで遊びたいけど待っている子がいるから使わないという「したいことでもしない」のは自己抑制的コントロールです。やりたくないけど当番だから掃除をするみたいな「したくないことでもする」もこれです。

このように自律性は自己コントロール能力を社会状況の中で使い分けるという意味で非常に重要な能力です。

しかし、自己主張・実現的自己コントロールは日本文化の中では大人でもしにくいことがわかっています。レベルとしては4歳のときでほぼ頭打ち。これに対して、自己抑制的コントロールのほうは直線的に発達します。

本来ならこれは逆で、自己主張のほうが容易です。日本文化の特徴でとも言える「言いたいことがいえない」という面は、このような点から切り取ることができるでしょう。

これが言いか悪いかはどうともいえません。ただ、これは適応の問題にもかかわってくることなのでちょっと考えなければいけないことです。

もしもある人が自己抑制的コントロールしかできいのであれば、常に抑制的に行動するしかないわけで、それはいつか不適応か、社会的場面からの引きこもりを生むでしょう。また、そうでなくても自己抑制的コントロールがうまくなるためには、「したい」「したくない」をそもそも感じない、つまり、自己を殺すことになります。

とはいえ、自己主張ばかりが過ぎるのも問題です。集団行動ができなくなり、結局は不適応につながります。

つまり、適度にバランスよく発達することが大事なのです。

ここまでは自律、という点で話を進めてきましたが、自己や自我がくっつく言葉にはまだまだあります。

まずは自己意識の話をしましょう。自己意識とは「あの時私は……」のように自分自身を意識の対象とすることです。心理学者ジェームズによれば、このとき「自分とは何かを考えいる自分(I)」と「それとは違う自分(me)」に分けて考えることができるとされます。これは自己を2つに分ける、という意味ではなくて、自己がこの二重性を持って現れる、ということを意味しています。

乳児や大人でも寝ているときはこの自己意識は働いていません。自己意識が働いている状態とは、いわゆる我を忘れてしまった状態である「即自的自己意識」(幼児、児童、大人でも何かに没頭して取り組んでいるとき)が1つとしてあり、もう1つが他者からどう見られているか、それをいつも意識しているという「対自的自己意識」(青年期以降。特に自省時や自己洞察時に)です。

流れとしては「意識がない→即自的→対自的」となっていきます。青年期に対自的な部分が出てくる、ということは、自分を他者の目で見ることができるということであり、これは別の言葉で言えば「メタ認知の獲得」です。

このとき同時に起こるのが、自分を肯定的に見ることができなくなることです。他人との比較の中で否定的な自己を見るようになる、それはまさに対自的自己意識です。この意識が強くなればなるほど、否定的側面に気づくため、どんどんどんどん気になっていきます。また、自分という個としての存在に気づくにつれて、孤独感も増していきます。

理想と現実はいつも違う。これに気づくことが、こうありたい自分と、こうはありたくない自分とを意識し、自分自身を変えるきっかけとなります。ようは自分のための努力をはじめるわけで、人間は決して、何かを与えられるだけで生きているわけではないのです。

実際、どのくらいの人が自分が嫌いなのか数字を挙げましょう。たとえば、小学校5年生でアンケートをとると、58パーセントの人は自分に満足していると答えています。しかしこれは、急激に落ちます。中学校3年で同じアンケートをとると、自分に満足している人は20パーセント。逆に不満足な人は45パーセントにもなってしまいます。この中で、自分が好きな人は減り、嫌いになる人は増えます。

この頃は思春期の始まりで、第2次反抗期とも言われます。親や教師といった大人の価値観と自分の価値観との間に溝ができ、対立的になります。そして、親は人に見せたくない恥ずかしい存在へと変化していきます。親子関係より友達との中に精神的な安定を求め、相談相手も親ではなく、友達になります。

この裏では否定的な側面に気づいている自分がいます。それを何とかいい方向に変えようとしても、そうは簡単に変わりません。それゆえに、否定的な面を内に入れ、肯定的な面をまるで仮面をかぶるように出すという心の動きが起きます。これを仮面的性格、仮面的自己呈示といいます。これはまさに人格が2重構造であることを示し、青年期には差はあっても普遍的に見られることです。

これが強まってくると対人関係にも特徴が出てきます。それは自分を理解してくれる人を求めつつ、それを非常に恐れるというアンビバレントな傾向で、この傾向が強ければ強いほど、孤独感は強くなります。自分を理解する人を求めることは、自己開示をすることにつながります。それは恐ろしいことです。実際には何も起きなくても、バカにされるかもしれない、嫌われるかもという恐れは、この人に理解されたい、と同じくらい現れるのです。このような人格の2重性は次第に1つのものへと統合されていきます。

またもう1つの見方を自我同一性という点から見てみましょう。自我同一性は、自分は結局のところ誰で、どこから来て、結局どこへ行くんだろう?という疑問に行き着きます。もちろんこれに正解はありません。1人1人にとっての答えを自ら見つけ出すしかありません。

エリクソンが言う自我同一性の獲得、というのはこの答えを見つけた状態です。これは今まで生きてきた自分と、これから生きていく自分を感じ取ることであり、そういう自分を周りは認めてくれるだろうと感じることです。

しかし実際これを獲得することは簡単なことではありません。大学生に対する調査によれば、多くの場合同一異性の達成は困難なことが示されています。

女性の場合は早期完了(自己をめぐる危機を経験せずにコミットメント(傾倒)だけはしている状態。たとえば、医者の下に生まれて、将来は医者になるんだといい聞かされて、何も考えずに今医学部で学んでいるような状態)が最も多いことが認められます。しかし、これは男性の場合と違って不適応を引き起こしません。これは多分、生き方の普遍性の違いだと思われます。

これとモラトリアム(意思決定をしようと悩んでいる段階。コミットメントに対しても現実的な選択肢の中で試行錯誤中)と自我同一性拡散(危機のあるなしは別として、コミットメントしていない状態。むしろ、自己が限定されることを恐れ、避けようとする。たとえば、アルバイトには熱心に取り組むのに、自分の本当の職業は選べない状態)の2つの状態を足し合わせると実は60パーセント近くが自我同一性を獲得していないことが示されています

思春期、青年期は延長する傾向がある、と最近ではよく言われます。このうえで最近フリーターが多くなったことを考えると、それは当たり前のことなのかもしれません。

ここからは私の考えなのですが、最近では早期完了群が減り、逆にモラトリアム群と自我同一性拡散群が増えているような気がします。この中でも自我同一性拡散群の増加が目に見えてきているのではないか、または、今までとは数は変わらないのだけれど、それが目に見えるようになってきたのではないか、と思います。

それがいいとか悪いとかを議論していてもしょうがありませんが、そうなのかもしれない、と思うだけで、今の世の中を少し冷静に見られる気がします。

自己と自我は青年期が終わっても展開を続けます。これはライフサイクルという中に取り込まれてくるので、そちらで議論をしましょう。