cafe de psyche

考えてみよう(06年11月)


年も押し迫ってきてしまいました。今年はこれといって原稿を書く事なく、適当に過ごしてきてしまったせいで、ほとんどサイトは更新されなくなってしまったのですが、本日はどうしても書いておこうかな、と思って、キーボードをたたき出した次第。

最近、小学生、中学生の自殺が相次いでメディアに取り上げられているわけであります。そして、そのほとんどが「いじめを苦に」な感じで取り上げられておりまして、このひと月くらいの間でいったい何があったんだという感じ。そして、同時に、高校では単位が足りない!なんていう、あり得ないだろ!?みたいなニュースが出てきて、世の中大丈夫なんでしょうかとか思ってしまうところなわけです。

私的な小学校生活を思い出しますと、よく考えたら、いじめられてたんだろうなあ、なんていう薄いレベルの記憶がございます。最近のテレビと取り上げられているような「言葉によるなんとか」というのがよく、っていうか、6年間ずっとあったもんね。ただ、クラスの9割方がそんな感じだったってこともあって、それが当たり前になっちゃって、私はそういう事をあまり大きな問題として取り上げなかったので(卒業する直前になってようやく「やだなあ」とか思ったくらいの鈍さ)、とりあえず今も生きておるわけでございます。

で。25歳の現在から見てみますと、別にその当時のクラスメイトに対して遺恨もなければ、なんにもなかったりする。当時は子どもだし、子どもってのは大人以上にどの派閥に所属するかとか、その場の空気の流れとか、そういうもんに影響されやすい(女子はそれがさらに厳しくなりますな)わけで、今になって振り返ってみると、理解ができちゃうんですね、いろんな事が。だからまあ、別になんにも思ってないわけです。

しかし。今現在やられてる、って時は、それはまあ、苦しいったらないわけです。だいたい、いじめというか、からかわれ始めるのって、別に何か大きな理由があるわけでもなく、「なんとなく」だったリするから、理不尽ったらありゃしない。からかわれる側に落ち度もなければ、からかう側にもなんにもないんです。ただ、そのときの空気の流れで、なんとなくそうなっちゃって、気づいてみると、それに拍車がかかっちゃって、誰も止めようとしなくなっちゃう。だから、どんどこ苦しい状態は深くなってしまう。

ただ、その状況をより苦しくしてしまうのって、結局、やられてる側のせいだったりするところもあるから、この手の話って難しいんだよね。やられているだけでなく、何かのタイミングで力が出せたり、別のステージでやり返せたり、私みたいに楽天家だったりすると、この手の事は意外と乗り越えてしまえたりする。全員が自分に向かってきたとしても、世界を狭くしないで、もうちょっと周りに目を向けて、例えば、親が理解してくれたりすると、それだけでこの手の事って、大丈夫になっちゃったりするのです。

だから、最近のテレビを見ていると、自殺したって事を受けて、その学校にいじめがあったかなかったかばっかりが話題になってしまっているのが、なんか、感覚的に違うな、と思うところがあります。だって、あったかなかったかなんて、ほんとの事言うとどうでもいいんだもの。自殺したその子にとって厳しかった、っていうなら、それがたとえ、端から見たら何もなかったとしても、何かあったってことなんだから。だから、そんな犯人探しみたいな事したって何の意味もないし、謝罪、なんてことしても、何も変わらない。そう思うから、なんとなく、感覚的に奇妙さを感じてしまう。

では、どうすればいいんだろう、ということを考えると、これは絶対に結論が出ない世界に入ってしまうから、これまた悩みは深いわけです。結論なんて出るわけがないよね、ぶっちゃけた話。そうやってあきらめる、って事ができる人は、死を毎日のように思い浮かべても、カッター眺めることはあっても、多分大丈夫かと思われますが、そうじゃない、生きる事にまじめな人たちにとっては、もうどうしたらいいか、わからないまま、日々を過ごすしかない。

手を差し出されたとしても、それの判断は難しいし。

雑草だって生きてるじゃない、みたいな一言は何の役にも立たないどころか、むしろ、悲しくなったりするし。

頭じゃわかってるのに、って事が山ほどあるのに。

どうすりゃいいんだろう。

結論から言うと、これって、やられる側がどうそれを乗り切るか、というコーピング・スキルにかかってくるんだろうなあ、と思う。まじめで、どうしようもないくらいにまじめだと、学校休む、なんていう簡単な対処すらしないまま、漫然と学校に行って、嫌になって過ごしてしまうし、休める子であっても、核爆弾を胸に抱えたまま一人悶々としてて、いつカッター眺めてもおかしくない、なんて状況になってくると、それはもう、自分のコーピング・スキルとの戦いになるわけです。

でまた、こういう子たちに限って、他人に頼るという事をしない。追い込まれたり、ギリギリになっても、一人でなんとかしようとする。心の中はハリケーンでも、表情では凪である事を見せつけて、演技だけどんどんうまくなっていって、そこのギャップにまた、自分ではまったりしちゃう。やっぱりこれではダメなのです。

自分を引き合いに出しながら話しているので、これはつまり、自分に対しても言える事です。私も全然人に頼る事をしないもん。で、そんなバカな私がここまで育ってきて思った事は、いい意味で、人に頼る人間にならないとダメなんだなあ、ってこと。そして、いい意味でダメ人間になる事も必要だと思った。それさえできれば、抱え込んだり、逆に放出しすぎたり、なんて事はない。まじめに取り組んでたら生きていけないし、少し抜けたくらいがちょうどいい。今になってようやく気づいた事であります。気づくまでに四半世紀費やしちゃいました。

彼ら、彼女たちはまじめだったんだろうなあ、とテレビを見、そういう話に触れる度に私は感じています。でも、ちょっとだけ思考が足りてないよね。死んじゃったら、そういう事態から解放されて、楽になったって事を感じる「自分」っていう存在がどこにもいなくなっちゃうのに。ほんとは、楽になった上で、やり直しなんか効かない、と意識して改めて歩き直さないといけないの。それはそれは大変な事なのですが。

私がどん底だった時代というのは実は、問題の小学生期ではなく中学生期のほうでして、しかも3年間まるまるをそれに費やしてしまったほどなので、より問題は大きいというか、世が今なら、私が何かのターゲット、って感じなのですが、結果的に、そんなまじめ一派側だった私が、今もこうして生きているきっかけになったのは、「あー、三者面談だよ、明日は」と追い込まれまくっているときに聞いた、ネオンパークの「用がなければ帰ります」という曲(とっくに廃盤)なのでした。音楽が大好きで、転げてサラリーマンになっちゃった自らがサラリーマンの実態を歌い、サービス残業を哀愁をで包み込んだ、端から見たら、カテゴライズ不能なこの曲は私の心をがっちしゲットし。

そうだよ、「用がなければ帰ればいい」んだよ。

あったり前の事ですけどね。そうだよ、何も耐える事なんてないんだよ。帰ればいいんだよ。そう思った瞬間に目からぼろぼろと鱗が落ちて、ついで、笑顔が止まらなくなってしまったのでした(^^;)

つまりだ、追い込まれたときほど、気楽にならないといけない。そしてそのためには、いろいろなものに触れなくてはいけないと思う。音楽しかり、外の空気しかり。

さすれば、知らないときに突然、何かが開けちゃったりするかもしれない。

彼ら、彼女たちにはもうちょっと生きる事を試してほしかったなあ、と私は思うのでした。ちょっとだけ外に目を向けたら、違うものがあるかもしれないのに。決して、彼ら、彼女たちが悪いわけじゃないから、それもまた、一つの選択という事で今生きている人たちは受け止めなければいけないんだけれど、でもね、目の前のストロボの明るさに目がくらんで、そのあとの事が見えなくなっちゃダメなわけで、それはつまり、一人一人がもっと考えなくちゃいけないという事なんでしょう。

この問題、当たり前だけど、結論なんか出るわけがない。あえていうなら、今のメディアがやっている、不毛な犯人探しだけは今すぐにでもやめてほしいという結論が導きだされるくらい。とりあえず言えるとしたら、夢際のその瞬間まで、いろんなことを考えよう。

考えない事には、何も始まらないのです。