cafe de psyche

サイコロジカル(05年2月)


今回は「心理学的な」お話です。ということで、タイトルも「サイコロジカル psychological」 といっても、西尾維新さんの小説とは関係ありません(検索で上位に引っかかるし、読者層も重なるだろうから、一応)。

ていうか、どうでもいいことですが、この"psych"を接頭語に持つ英単語って、めちゃくちゃいっぱいありますね。例えば、psychobabbleなんていう単語があって、辞書引いてみたら、

the words and phrases your mental health professionals use to mislead and confuse you.

つまり、やたらめったら心理学用語を使って話す人のことみたい。

psycheを動詞化して、I was really psyched.なんていうと、「すごく幸せだった!」とか「すっげー興奮した!」という意味になりますね。happy辺りと同じ意味なのです。また、名詞化すると、心とか精神という意味と共に、ミノムシの成体化したもの、つまり、ミノガという種類の蛾の意味にもなります。もともと、psycheにはギリシャ語で蝶という意味があるので、だからまあ、そうなのです。

ちなみに、psychologyはもうひとつの「魂」という意味からきているわけですが、その語源となる神話、昼ドラみたいですごく面白いので、よかったら読んでみましょう。美の女神「アフロディテ aphrodite」と、そのアフロディテが嫉妬するほどの美しさを持っていた背中に蝶の羽根のある少女「プシュケ psyche」の話です。

話を本筋に戻しましょう(冒頭でえらい飛んでいってしまった)。「脳はなぜ『心』を作ったのか」(前野隆司・著/筑摩書房)を本屋さんで立ち読みました、というところから始めます。

著者は慶応大学理工学部の人。「脳が考えて、それが神経を伝わって、活動として実行される」という発想を否定し、私たちが「意識」と呼んでいるものは、「『無意識』がやったことの『意識がやったもんだ』という錯覚」とすっぱり切っております。その錯覚をする理由については、「エピソード記憶を作るため」と、著者。そして、この「意識は後からやってくる」というのを「受動意識仮説」と名づけています。

一見、目新しい説に見えますが、「意識」を否定していた頃の心理学を考えると、うーん、似たようなのよくあるよなあ、という感じ。

例えば、機能主義的アプローチである感情の末梢起源説、「ジェームズ=ランゲ説 James-Lange Theory of emotion」も似たようなもんです。「人間は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ」というやつですね。

ということで、目新しさはないわけですが、このような議論が哲学や心理学ではなく、工学から来たことには注目をしたいです。学際的な研究(人工知能研究とか、ロボット研究とか)が進めば進むほど、今まで研究分野の間にあった壁が減っていく。そうすると、工学の次元で心を考えるという事も不可能ではなくなる。そういうこと。

まあ、アプローチの仕方があまりに違うんで、考えなければいけないところもそりゃ山ほどあります。ジェームズ=ランゲ説が出たんで、感情で考えてみましょうか。

感情に関する心理学的な学説、これを時代の変化と共にまとめてみると、こんな感じになります。

「ジェームズ=ランゲ説」…感情は生理的変化から来るというもの。

「キャノン=バード説 Cannon-Bard Theory of emotion」…生理的変化と認知過程、その両方とも重要というもの。「悲しみから泣くことが、さらなる悲しみを引き起こす」という考え方。

「対抗過程説 The opponent-Process Theory of emotion」…経験した感情に対抗する感情が強くなって、その中間が最終的な感情になるというやつ。例えば、愛は憎しみの裏返し。サスペンスドラマみたい。

「二要因説 Two-Factor Theory of emotion」…目の前に彼氏、彼女がいたといて、自分がドキドキしたとする。そのドキドキという生理的変化は、人が目の前にいるという認知的刺激と、目の前にいる人が好きだという原因帰属による、っと、こういう学説。

「認知喚起説 The Cognitive-Appraisal Theory of emotion」…二要因説よりさらに認知の働きを強めた学説。今の状況をどう解釈するかが感情の変化に大きく関わるというもの。

まあ、いろいろ説はありますが、結局、心理学なので、根本的メカニズムはわかりません。「心」の議論の出発点にどうしても思考とか意志、つまり、「自分を動かす何か」を置くので、どんなことを考えても、「わからん!」「どうしてそうなるかなんて知らん!」というオチがきちゃうのです。しかも、どんな説を立てても、大体それはあっていて、決定的なこれ!ってのがない。常に煙に巻いちゃうのです。

「意識は後から追いかける」と考えると、純粋に科学で感情にアプローチすればいいことになるので、そこら辺、楽になります。例えば、脳神経科学的アプローチを取れば、ある程度は感情の話もすっきりします。

この手のアプローチで一番有名なのは、感情回路とも呼ばれる大脳辺縁系の「パペッツ回路 The Papetz circuit」でしょう。最近では「海馬 hippocampus」などの記憶系も含めて回路は拡張されています。また、神経伝達物質としては、セロトニンなんかが絡んでいることがわかってますね。

このセロトニンが感情に絡んでいるということから、「モノアミンオキシダーゼ阻害薬 Monoamine Oxidase Inhibitor」とか、「選択的セロトニン再取り込み阻害薬 Selective Serotonin Reuptake Inhibitors」なんていう抗うつ薬が作られて、既に実用化もされています。

ということで、結構すっきりなわけです。なんていうか、「知覚心理学=主観的感覚生理学」「神経学=客観的感覚生理学」という違いを思いっきり感じますね。後者はすでに応用の域まで行ってますもの。

ということでこの立場、難しいことを考えるときには意外と使えます。例えば、最近話題の「クオリア Qualia」つまり、「あれ、丸いなあ」「鳥、鳴いてるなあ」「風がそよそよだなあ」といった、そういう感覚が持つ性質(より正確には、主観的体験を伴う質感)とか。これ、重要だってよく言われるんです、最近。で、これ、そのまんま考えたらえらい難問ですけど、立場を変えれば科学で迫れるので、わかりやすくなる。[茂木健一郎さんの取り組み]が有名です。

そういう意味では、この考え方、意外といいわけですが、ちょっと気をつけなければいけないこともあります。それは、「心を考える」とは、「自分で自分の事を考える」ことに他ならないということ。「脳が脳のことを考える」わけですから、よって、そこには「ゲーテルの不完全性定理」が引っかかる。

「どれだけ論理的でも、その論理が正しいという事を確かめたり、否定したり出来ないものがある」
「正しければ正しいほど、そのもの自身には自分の正しさを証明することはできない」

つまり、「人間の心」が「人間の心」を研究している限り、どれが正しいなんて言い切れないのです。もし言い切ろうとすると、いくら科学でアプローチしたとしても、「自己言及のパラドックス」がついて回る。

ということで、ある程度引いた目で見る必要はあるでしょう。まあ、心を科学の目で捉える事、それ自体は悪くないし、多分、煙に巻く学説や、カウンセリングなんかが導き出す結果より、遥かに合理的で、理性的なものになる(特に、ロボットだの、心理臨床だのといった、応用に関する問題には、科学的に考えたほうがより適切)だろうから、考えそれ自体は悪くないと思いますが。

人間の心理学的特性を「テンソル tensor」で表現してみるとか、どうでしょう? チャレンジしたらすごそう。例えば、感情と認知、ここから、どんなテンソルが書けるか。スーパーコンピュータを使っても処理できない可能性大だし、できても、とんでもない式になることは間違いないでしょうが、なんとなく気になります。

テンソルがよくわかんない、ていうか、心理学をやっている人はまず知らないと思うので、テンソルについて簡単に解説しておくと、テンソルとは、高校で学ぶ「ベクトル vector」の一般形です。ベクトルは向きがない「スカラー scholar」に作用して、その量の向きを規定しますね? テンソルは、さらにそのベクトルに作用して、方向や大きさを規定するものです。

例えば、水道管の中を流れる水そのものはベクトルで表現できます。水の量とか流速というスカラー量と水それ自体の流れる向きというのがありますから。では、水道管は何か。そう、これは水が流れる方向を計画的に規定するので、その水に作用するテンソルということになります。

心理学で扱う一つ一つの心理量には、[因子分析の手法]を見ればわかるように、ベクトル的な部分があります。しかも、「認知は感情に影響する」のように、そのベクトル同士が相互に関連することが示唆される。ということは、それをテンソルで表そうと思えば、できるんじゃないか、と思ったわけ。

こう書くとなんだか簡単そうですが、実際にはかなりハイレベルな数学になります。ベクトルがよくわかんない人には、理解は絶望的。だって、端から見たら、単なる記号の羅列にしか見えないもの。そもそも、建築の力学絡みとか、宇宙論なんかで登場するもので、ベクトルみたいに高校で習うとかそんなもんじゃありません。すげえ難しい。

でも、そういうもので心が表せたら、新しい時代にまた一歩進むと思うのですが、どうでしょう。