cafe de psyche

大学を卒業してみた(2004年4月)


さて。あと数日もすると2004年も4月になるわけで、うちの近所では既に桜が咲きまくりなのですが(後で写真を撮りに行く予定)、そういう時期だということもあって、私、大学を無事に卒業いたしました。

この「cafe de psyche」というコラムの一番最初、「大学で心理学っす。」っていうのを書いたのが、確か、2002年4月のことだと思うので、それから2年がたって、ついに卒業と至ったわけですが、うーん、特に感慨深くもないのはなんででしょう。

このまま大学に残り続ける(院生としてね)、そして、不安ながらも研究に邁進する所存、というのも、この感慨のなさに関係しているとは思うんですけど、それ以上に、なんだか、「あー、大学も終わっちゃったなあ」くらいにしか感じられない自分なんですよねえ。

高校卒業のときもそうだった。別に卒業するということが悲しいことにも、喜ばしいことにも思えない私なのです。なんだか、過ぎちゃったな、としか思えない。なんでしょうね、この感覚は。大学の4年間は一体なんだったんだ、というのが正直な感想で、結局、特に何もなかったか、というのが正直な結論。絶対によくない感想に結論だと思うんですが、うん、そう思いますね。

今から振り返ってみると、もっといろんなことしておくべきだったんだろうなあ、と思うのですが、何せ、生来の人見知りに、インドア派のアウトドア志向人間なので、特になんともなく生活してしまって、結局、今と同じように感じるかも、とか思ったりもします。実際、高校のときは生徒会とかやって、相当なアクティブ人間でしたけど、そうであったにもかかわらず、過ぎちゃったな、だったんですから。

もしかしたら、論理的にしか思考できないのかもしれません。そう、単純にステージが変わるだけ。今までのステージから、新しいステージに移るだけ。だから、過ぎちゃったな、としか思えないのかもしれない。その間にどんな思い出があろうと、想いがあろうと、その瞬間、切り替わる瞬間は、ただ、切り替わる瞬間としか思えない。そんな感じ。

大学に入ったんだから、卒業するのは当たり前。その間に何があろうと、始まったら終わるのが当たり前。えらい冷めた思考ですが、私にはそうなんですよね。だから、卒業ってのが当たり前にあって、だから、特に感慨深くもなく、過ぎちゃった。そう感じます。

晴れ着とか着て、街中を歩き回っている、卒業式が終わったばっかりだろ?とすぐわかるような女子大生とかがうらやましいです。私にはなにしろ、晴れ着とか着て、の部分がわからないから。別に、証書もらっちゃえばそれでいいじゃん、でしかないんだから。大事じゃないんだから。そういうことで、ちゃんと遊べる人たちがいいなあ、とうっすら思います。

それと、もう一つ思うことがある。その晴れ着着て、とかの多くは、この4月から会社に入って、社会人として働いて、お金もらっていく生活をしていくわけです。そんな中私は、これからも大学というところに何年かいて、学生としてお金払っていく生活をするわけ。そのギャップが、少し痛い。痛いというか、厳しい。

なんだろうなあ、結局、大学院に行くということが、社会に出ることを延長する一つの口実のように感じてしょうがないんですよ。私が純理系ならそんなこと思わないんだろうけど、そうじゃないから、特にそう思うのかもしれない。

だってさ、かたや社会で働いてお金もらって、かたや社会に出ないでお金払うんだから。後者は明らかに何かに甘えている感じがするでしょう? なんだか、ちゃんと物事を考えることから逃げ回っているみたいじゃない。

ていうか、実際そうなんだよね。もしもちゃんと考えが付いているのなら、何も大学なんてところに残らなくたって、どこかに飛んでいっちゃえばいいわけです。なんとなく不安定でも、そのほうが先に進めますから。大学院に残る、ということは、結局はステージを延長する、アンコールをやるみたいなもんで、結局、ただ問題を引き伸ばしているだけなのかもしれない。

いや、この問題を考えるのはやめよう。自分のアイデンティティをただ考え直して、強力に弱まっていくだけです。とりあえず、大学院でがんばります。働いてお金をもらっている人と同じくらいに、いや、それ以上に、がんばります。それしかないでしょう。

4月まであと数日。あと数日したら、ステージが入れ替わる。がんばってやっていこうと思ってます。