cafe de psyche

until you're dead.(2002年9月)


日常に死って身近のようで身近じゃないんですが、身近になってしまうような事柄が最近ありました。

義理の兄が亡くなったのです。それも結構すごい形で、はっきり言ってここでは言えないような亡くなり方で(とはいえ自殺とか殺人とかではありません)、警察の方もひどいといったくらいの感じでした。

で、現実的にはお葬式をしたり、そのあとこまごまといろいろあったりして、かなり忙しく、今はちょうどそこから抜け出した「ふっと」した空間に漂ってます。

心理学的に言えばこういうのは「喪失(あるいは別離)体験」と言われます。「社会的再適応尺度」という、ようはストレスの指標みたいなもんでは「近接者の死」はマグニチュード63とされています。これは自分が結婚したときよりも、大きな怪我や病気をしたときよりも上です。

ウォーデンはこれもひとつの課題として「悲哀の課題」というものを考え出しています。それによると、

(1) 喪失の事実を受容する。

(2) 悲嘆の苦痛を乗り越える。

(3) 死者のいない環境に適応する。

(4) 死者を情緒的に再配置し、生活を続ける。

ごもっともです。

ウォーデンはこの課題が完全に完了したかどうかは、亡くなった人を苦悩なく思い出せるようになったかどうかだと言ってます。悲しみが生じても号泣を招くようなものではなく、逆にいえば笑えたり、教訓にできたりすれば、完了なのでしょう。

そうなるまでの時間がどれだけかかるかは、その人との関係によるだろうし、社会的状況にもよります。

私自身はこの件についてはもう整理がついてます。ですから、昼間は何の問題もなく暮らせています。

ただたまに夢の中とかで、骨拾っているときのシーンとかがフラッシュバックしたりするから、まだ完全ではないのでしょう。

さて。心理学はこんなとき、何ができるのでしょうか?

臨床なんかの教科書を読むと、援助の対象となっています。ですが、私たちが求めていないときにそんなことをやられた日には、はっきり言って、大きなお世話です。

心理臨床はあくまでクライアントが望んだときに行われるべきです。カウンセラーのほうが自ら出向いて、まるで訪問販売のようにやっていくのは、はっきり言って、邪魔している以外の何者でもありません。

ただ、心理臨床に携わろうとしている人(携わっている人ではない)の多くが、困っている人がいたら助けるのが責務のように思っていたりします。

自分に何ができるというのですか? それは望まれていることなのですか?

私はあえて言葉を汚くしてでも言いたいと思います。嫌われても結構です。

もし近くで誰かが悩んでいたとして、その人に話し聞いてあげるよ、なんていった日にはどうなると思います? たぶん多くの場合は信用もされなければ、疑われるばっかりでしょう。

望まれてもいないのに救いの手を伸ばすのははっきり言って自分勝手です。自分は何かできるという思い上がりです。

確かにそういうことが必要な場合もあるでしょう。でも、それはすごく限られた場合だけだし、ちゃんとそういうことができる専門家に任せるべきです。

そういう意味でカウンセラーはお坊さんとか牧師さんに近いな、と思います。人が欲したときだけ、その人自らの意思で求める。これが真実の形です。

さて。今回のタイトル「until you're dead.」は実は前に言葉があります。
それをくっつけて完成させると、「You're not done until you're dead.」

人間死ぬまで終わりじゃない。

たとえそれは何かに悩むクライアントであったとしても。

私は今回の死を通して、生きるってことがどれだけのことかある程度わかったつもりです。そう簡単に死ねないし、生きている意味なんかないのかもしれないけど、周りを見ていると、絶対死ねないなと、がんばらないといけないな、と思ったものです。

だからこそ、クライアント思うと、カウンセラーのことが気になる。

それに、今悩んでいる人は絶対死んじゃだめ。自殺なんか絶対だめ。あなたの命はあなたの勝手なんだけど、でも、あとに残される人たちが絶対いる。悲しまない人なんかいないし、どうしようもない人間であっても、ちゃんと周りの人は見ててくれてる。つらいのはわかるけど、絶対死んじゃだめだよ。

私だって死のうかな、なんて思ったことあるけど、今生きててよかったと思ってる。

生きられるだけ生きて、そのうちやってくる楽しいことを待とう。何かしら絶対あるから。そして、本当に死ぬことになったその瞬間、生きててよかったな、と思えるようになろう。

……もしも私が何かするとしたら、こう言い続けるだけでしょう。