cafe de psyche

ネットに思うこと。(2002年12月)


年末です。ま、そんなこと関係なく日常は過ぎていくわけで、そんな年末年始の暇つぶしにコラム書いてみました。

最近「生きづらい」ってことがかなり認められる世の中となりまして(「anonymous」なんていう本が出ても違和感ないくらいに。しかもそれが、大学の図書館にあっても違和感ないくらいに)、ずいぶん前にも「弱いだけでいいの?」なんていう話しましたが、これ、もう少し考えてみたいと思います。

ていうのも、私は生きづらいってことを否定したいわけでも、そういう人を差別したいわけでも、偏見を持っているわけでもなんでもなくて、私もそんな人間なんだけど、なんでネット上だと元気なのかな〜とか思っちゃうわけですよ。

どちらかといえばリアルな対人関係は苦手というか、奥手で、日ごろは自分のことなんかぜんぜん言いもしないのに、ことオンラインになると、なんだか元気というか、表現できるというか。リアルな友達よりもネットでの友達のほうが多い、とか、そんな人がいっぱいいるような気がします。

「ネットの上では自我がゆるみやすい」というのは結構指摘されていることでして、それとともにネットってのは「積極的な引きこもりを生みやすい」なんてことも言われたりします。非常に問題ある言葉な気がしますが、言い換える言葉も思いつかないのでそのままにしておきましょう。

ネットの世界ってのを考えますと、こうなります。以下、私が大学に出したレポートより引用。

「しかしそれとともに、CMCのコミュニケーション空間がパーソナルとマスのちょうど間の「中間型社会的世界」であり、関与されたり、誰かと出会ったり(=孤独から脱却できる)、自分の言葉で表現できるなどの魅力をもつ点も考慮しなければならないだろう。

たとえば、メール交換ひとつを見ても、日常生活と比べてメールのほうが自我が緩みやすいと考えられる。もちろん、メールフレンド(メル友)とは日常的な関係がないのだから、何を言っても構わないと考えることもできるが、それと同時に、現実世界のほうが「嘘」や「仮」であり、CMC世界のほうが「本当」であるというリアリティの反転が起きることも考えられる。

ここに見られるコミュニケーションは「自己都合型」である。メールフレンドは「親密な他者」であるが、それには今までにない関係の新しさがある。それは、1) 非制度的関係、2) 制限的・瞬間的、3) 代替可能、4) 自分がイメージとして構築する、5) 他者が無限(無批判的)抱擁という点でまとめられるであろう。メール交換が文通と違う点は、1)と3)が容易であるか否か、である」

またこうも書きました。

「ホームページ(ウェブサイト)の普及には、マスメディアへの関わり方としてA.ヒニイスペールトが提唱した「by audience」的側面が見て取れると同時に、「自分が情報の主人公になる」側面など、それだけでは語れないさまざまな面が見て取れる」

はい。読み飛ばした人も結構いると思いますが(文体が急に変わって読みにくいからね)、この中で大事なのが「CMCのコミュニケーション空間」というのと、リアリティの反転、自己都合型、そして自分が主人公になれるという部分です。

CMCはcomputer mediated communicationの略で、つまり、パソコン使ってコミュニケーション、という意味。もっと訳せば、BBSとかメール、チャットで会話するようなことを指します。

このCMCは自己都合型だ、というのが私の主張です。それをまあ4つに分けて難しい単語で説明しましたが、つまりは、相手が無条件に受け入れてくれる、それが第一前提の、誰でもよくて、個人の頭の中のイメージが中心となる、日常のお付き合いとはぜんぜん違う関係、ということです。

そこにもうひとつ出てくるのがリアリティの反転で、つまり、現実よりネット上のほうが現実らしいという感じ。

私はネットが普及したポイントをそこに置いています。ネットが便利だから、っていう面も確かに大きいでしょうが、それを使う人間側の問題も結構あると考えているんですね。

んでもって最初の問題、何でネットだと元気になれるのかっていうことなんですが、これらのことが複雑に絡み合っているような気がするんです。

確かに最近、個人で詩を書いたり、写真撮ったりなんだりで表現する人が増えました。その発表の場が問われなくなってきたのもまた事実です。ただ、何故ネットなのか?

それは不特定多数の人に見てもらえるというだけなのでしょうか。もし最初そうでも、それを続ける、という時点で何か違う面もあるんじゃないでしょうか。すっごい疑問なのです。

たとえば、ウェブ上の日記。見ている人はあれを楽しみにしている人もいますよね。私もそうです。でもって、書く側としては、それ以外にやることないとかまあいっぱい理由はあるわけですが。

でも、普通の場面に置き換えて考えてみると、ちょっと変だと思いませんか? だって、リアルな現場で人の書いてる文章とか覗き見たら、まあ、何か言われなかったとしても、嫌な顔されると思います。それがネットでは平気です。

詩なんて、隠したいもののトップ5に入ると思います。現実では。

ものを続けるという面では「まあ、見ている人がいるんだから…」という点も大きい。しかしこれもなんか変。日常場面にそんなこと普通ないでしょう。

つまりネットというのは、妙なところなのです。

ここでひとつの扉を開くキーが「生きづらさ」なんじゃないかなと。

日常ではそんなことできない、そんなことをする勇気がない、どうすればいいかわからないようなことが、ネットでは瞬時に思ったときにできる。これはある意味、快感です。

たとえば、写真をパブリックなメディアに載せたいとしたら、出版社に持ち込んだり、投稿したり、なんだかんだとしなければなりません。どうすりゃいいかわからない、なんか言われたらどうしよう、いろんな思いが渦巻くと思います。

しかしネットではそのようなことを考えなくていいわけです。自分が出版社であり、投稿者だから。そしてそれを見てくれるオーディエンスがなんとなく出てくる。すると、そのオーディエンスは何も求めては来ないかもしれないけれど、とりあえず、がんばる。

元気になれる。

こんな感じなんじゃないでしょうか。

(フロイト的に述べると、なぜそうできるのかは謎だが、快楽原則をあまり放棄せずに特別な才能と工夫で空想の世界と現実の世界を行き来しながら作品を作る。それが他の人に受け入れられる。これが現実原則を満たす、つまり快楽原則と現実原則が融和している。これはフロイトの芸術に対する考え方なんですが、ネットの場合、才能とか工夫ってとこがかなり微妙です。もしかしたら、みんなその力を持っているんだけど、現実では出せる人と出せない人がいるのかもしれない。出せるのが芸術家? だとしたら、ネットはその力を出しやすい空間と考えると理解できますね)

それらはすべてに跳ね返っていきます。最初に表現できれば、いろんな手段を使ってコミュニケーションがうまくなるだろうし、それがリアルシーン、つまり現実にも及んでくる。こうならないでしょうか。

確かにネットにはこれとはまったく反対方向、つまり、落ちていく一方な可能性もあります。それはひとえに、それが許されるほど自由だからです。

だけど、ネットを使って元気になれるとしたら、これはラッキーなわけで、こういう側面もちゃんと考えていきたいな、と思うわけでありました。